無垢な天使の笑顔は、時にとても罪つくりなものだ。
遥か昔、天と地を分かつ戦いがあった。
天を治めるものは神として崇められ、
地に落ちた者は堕天使…悪魔と称され、恐れられた。
やがて天と地は交わる事をせず、その均衡を保ちだしていた。
曖昧な二つの世界の均衡を移す鏡……
それがその間に存在している人間界だった。
人間界が堕落すれば、それはおのずと魔界の力の象徴となる。
逆に人間界が浄化されれば、それは神の力の大きさを表した。
人間が魔の力に魅入られないため、神は天使たちを世界に放っていた。
彼らは様々な手段を駆使して、
人間たちが清らかな心で人生を過ごせる手助けをしていたのだった。
そんな天使の中に、アレンは存在していた。
彼はどこから見ても天使と称するに相応しい、美しくかつ愛らしい出で立ちで、
銀色の艶やかな髪に、やや青味がかったアッシュグレイの瞳をしていた。
その瞳は澱みなく清らかで、
白い肌はどこまでも透き通っている。
彼は誰からも愛され、特にその主でもある神にいたく気に入られていた。
上級天使にしか与えられない守護天使たちの調整役や
伝令役を主に言いつけられる彼は、
天使たちの間でも一躍有名な存在だった。
「おはようございます!」
「ああ、あはよう、アレン」
「今日は何をすれば宜しいですか?」
「そうだな……今日はちょっと遠方まで用事を言い付かってもらおうか?」
その屈託ない笑顔は誰をも幸福にする。
それは神とて同じで、毎日この笑顔を目にするのがある意味楽しみでもあった。
そんな彼を遠くの地へ赴かせるのは少しばかり不安だったが、
アレンならばどんな偏屈で有名な相手にでも
きちんと伝言を伝えてくれるだろうと信頼していたので、
神は敢えて今回の任務にも彼を選んだのだった。
「アレン、お前はマールスの剣というのを知っているか?」
「はい……世にも恐ろしい地獄の番犬、ケルベロスが護っているという、
禍々しい力を秘めた魔剣ですよね?」
「そうだ。
あのケルベロスが容易くその魔剣を手放すとは考え辛いが、
悪しき考えに身を窶した人間が、その剣を手に入れようとしているようだ」
「えっ? では……僕はその制止をすればいいんですか?」
真顔で心配そうな顔をするアレンに、神は優しく微笑んだ。
「いいや、お前にそんな危ない役目はさせないよ。
お前にはその件である場所へ行って欲しいのだ」
「……どこへ……でしょう?」
やや不安な面持ちでアレンは小首を傾げる。
「アレンは、マールスの剣に対抗できる剣の在り処を知っているかい?」
「えっと……確か……」
アレンは必死で話の剣を思い出そうとしたが、
名前すらうっすらと思い浮かびはするものの、
肝心の場所となるとさっぱりだった。
「ははは……さすがのお前もそこまでは知らんだろう。
アレは秘密裏にある天使に護らせているからな。
今日は、お前にそこへ行ってもらいたんだ」
「はい! 喜んで!」
通称ファントムソード……妖しの剣と言われるその聖剣は
天界が守護する数少ない剣の一つである。
あまりに大きな力を秘めた剣は、
普通の天使では力にあてられ体力を消耗してしまうため、
触れることも躊躇われるものらしい。
ふぅん……どんな天使がその剣を護っているんだろう?
アレンは道すがら知り合いの天使にそれとなく聞いてみる。
「ねぇ、これから東の天上まで行くんだけど、東の空ってどんな所なの?」
「ああ……あそこは、ユウってう偏屈な奴が護ってるよ?」
「偏屈?……なの?」
「う〜ん、何ていうのかな? 強い奴らしいんだけど、かなり無愛想っていうの?
いっつも不機嫌そうで話もろくにしたことないけどね?」
「へぇ、そうなんだぁ」
「お前、そんな所へ行って平気なのか?」
「うん。僕は大丈夫。だって神様のいいつけだもん」
明るく笑うアレンに、仲間たちは不安を隠しきれない様子だったが、
仕事が済んだらすぐに戻るのだからと、敢えて余計なことを言うのは差し控えた。
そんな仲間の様子に気付きながら、
アレンは逆にそのユウという天使に興味をひかれるのを覚えていた。
雲ひとつない青い空を白い翼で飛び続ける。
しばらくしてたどり着いたそこは、人気のない天上の城だった。
大きな門に隔たれたそこは、まるでアレンが侵入する事を拒むかのように
立ちはだかっている。
「すみません! 誰かいませんか?
神様の使いでやってきました!」
しばらくの沈黙の後、扉が音を立てて開け放たれる。
「ちぇ、誰の迎えもなしかぁ……
ユウっていう天使はこのなかの何処にいるって言うんだろ?」
少しだけ小さく口を尖らせた瞬間、
微かな花の香りがした。
あ……いい香り……
そう思いながら、つい匂いのする方向へと翼を羽ばたかせる。
オリエンタルな色調の城の城壁を潜り抜けしばらくしたところに、
まるで天上とは思えないほどの綺麗な花園が存在していた。
白い絨毯が敷き詰められたような花園の中に
ぽつりと佇む樹齢幾千年かとも思えるような大樹が佇んでいる。
その下に、羽を休める一人の天使の姿があった。
周りを取り囲む花に対峙するような長い黒髪の天使は、
穏やかな空気を楽しむように瞳を閉じている。
一瞬強い風が吹き、白い花弁が舞い上がると
彼の周りを慈しむようにとり巻いては通り過ぎていった。
まるで一枚の美しい絵画を見ているようで、
アレンは目を細めてその光景に見入ってしまっていた。
すると……
「おい、そこで何をしている?」
黒髪の天使がアレンに声をかけた。
その落ちついた声にしばし聞き惚れてしまったアレンは、
呆けながらただ彼の前に立ち尽くしていた。
「おい……俺の声が聞こえなかったのか?」
「……へっ……あ……!」
「あ……じゃねぇだろ?
名前も名乗らねぇで何呆けてる。 用がねぇならさっさと消えろ」
「そ、そんなっ! あの、僕、アレンっていいます。
神様の使いでここまで来ました。
あの、貴方がユウですか?」
アレンの問いかけに、ユウは鋭い瞳で睨みつけた。
だがアレンは動じることなく、いつもの笑顔で彼に話しかける。
「神様から、貴方の護っている剣について伝言を託ってきました」
「剣の……こと……?」
「ええそうです……実は……」
アレンは神に言いつかった通りの伝言をユウに伝えた。
マールスの剣が人間に狙われていること、
万が一マールスの剣が人間の手に渡ったら、速やかにファントムソードで
封印し、闇に還すこと……
するとユウは話を聞いてしばし沈黙していたが、
やがて一笑するようにアレンにこう告げた。
「は、馬鹿らしい……人間如きにあのマールスの剣が手に入れられると?
ケルベロスもそんなドジは踏まんだろう。
何なら俺がその剣ごと、奴らを一掃してやってもいいんだがな」
「そっ、そんな物騒なこと言うもんじゃありませんよ!
そんなことになったら天界と魔界の均衡が破れて、
また大きな戦争になってしまいますっ!」
声を荒げたアレンに、ユウは鋭い瞳を投げかけた。
「そんなに戦争が怖いか?
まだるっこしいやり取りをしているより、俺はそのほうが手っ取り早いと思うがな?」
「……なっ……!
戦争なんてしたら、また多くの命が犠牲になるじゃないですかっ!
どんな魂であろうと、傷つくことは避けるべきです!」
「ふん。とんだ甘ちゃんだな……お前……」
「お前じゃないです! アレンですっ!」
頬を赤らめながら興奮するアレンに、ユウはぷっと軽く笑った。
「はは……お前って面白い奴だな。
この俺にそこまで食ってかかった奴は初めてだ」
「だから……アレンですってば……」
ユウはさっきまでとは打って変わった表情で愉快そうにしている。
頬を膨らませ仏頂面全開のアレンに対して、
その髪をくしゃりと掴むと、今度はまるで子供でもあやすように呟いた。
「心配するな。剣のひとつやふたつで戦争になんかなりゃしねぇよ……
……そんなことは俺がさせない……」
「……え……?」
瞬間、アレンの心臓がどきりと脈打った。
……なっ……何……?
今まで見たことのない鋭い瞳の美しい天使に
アレンは今日、一目で恋に落ちてしまっていた。